府中町観光協会

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史跡のご案内

史跡をクリック(タップ)で説明文へジャンプします 神武天皇御腰岩 上岡田古墳 下岡田遺跡 導神社 甲越峠 水分神社 鵜上寺 田所明神社 総社跡 松崎八幡宮跡 石井城跡 道隆寺 龍仙寺 下久禰の石灯籠 鹿籠神社 龍泉寺の勘孝悌碑 多家神社 貴船神社 神武天皇聖蹟顕彰碑 草摺の滝 今出川清水 尾首の池

1神武天皇御腰岩じんむてんのうみこしいわ
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古事記や日本書紀によると、今から約2600年前第一代神武天皇が日本を統一するため、日向(現宮崎県)から大和の国(現奈良県)へ兵を率いてのぼられる時(神武東征)、府中でしばらく(古事記では7年)とどまられたといいます。
舟が岸に着いたとき、森の中で人々の話声がしたので、「曾は誰そ(あなたは誰ですか)」と聞かれたことから、府中中学校や八幡あたりの森を「たれその森」というようになったと伝わっています。また、大きな岩は、腰掛けて休まれた岩とされ、この名が残っています。


2上岡田古墳かみおかだこふん
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古墳時代には町内にも古墳が造られていました。この上岡田古墳には横穴式石室の一部が残っており、保存整備がされています。


3下岡田遺跡しもおかだいせき
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1957年(昭和32年)に発見され、以後、9次にわたる発掘調査の結果、礎石や根石のある瓦葺の建物を中心に堀立柱の建物や井戸の跡などが確認され瓦類、須恵器、硯、木簡、古銭などが出土しています。出土品は、府中町歴史民俗資料館に収蔵、展示されています。
遺跡は奈良時代から平安時代初期の地方の役所跡(安芸駅家跡)の可能性が高く、付近を古代山陽道が通っており、江戸時代まではこのあたりを「早馬立」と呼んでいました。


4導神社どうじんじゃ
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古くから道祖神が祀られており、村の守り神や交通安全の神として信仰されていました。「辻のいぼおとしさん」と呼ばれ、いぼのある人は神社そばの「手水鉢」でいぼを洗い、手水鉢の水をかえ、再度拝み、後ろを振り向かず、人と会って声をかけられても返事をせずに帰れば、いぼがなくなるという言い伝えがあります。


5甲越峠こうごえとうげ
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奈良・平安時代は、朝鮮半島との交流が盛んで、都から九州の太宰府(現福岡県)を結ぶ山陽道や瀬戸内海は、国の一番大切な交通路でした。京都から太宰府までの山陽道は「大路」と呼ばれ、安芸国には13駅がおかれていました。府中町の城ケ丘地区に「早馬立」という地名が残っていたのも、安芸駅家(下岡田遺跡)があったことを物語っているといわれています。
古代山陽道は、瀬野川、畑賀から「甲越峠(国府越えの意味)」を通り、安芸府中高校の下あたりから海岸線に出て、今の中山、戸坂、太田川を渡り、アストラムラインに沿って北上し、五日市、廿日市あたりに出て、大竹、岩国の方に延びていたようです。府中を抜ける山陽道のルートは、時代とともに変化していますが、府中は都と九州を結ぶ大切な位置にあったようです。


6水分神社みくまりじんじゃ
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平安時代から水にまつわる神様として祀られ、ここから水田に水を引いていました。江戸時代の干ばつ時にここで雨乞いをした記録が残っています。


7鵜上寺うじょうじ
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曹洞宗の寺院で、現在は町内会集会所としても使われています。南西の荒廃地は白雲亭という庭園跡で、江戸時代の文人である頼春水(頼山陽の父)が頼山陽と一緒にこの庭園に訪れ、詩を詠んでいます。「鵜上寺」というのは、昔このあたりは海に近く海鵜がこの台地に住み着いていたことによるといわれています。


8国庁屋敷跡こくちょうやしきあと田所明神社たどころみょうじんじゃ田所文書たどころもんじょ
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安芸国の国庁(古代の役所)があった場所。1690年(元禄3年)に田所氏が国庁神社(厳島遥拝所)を石井城からこの地に移し、その後、他の神社と合祀され1916年(大正5年)に田所明神社として建立されました。現在も田所氏の末裔が居住し、中世の田畑の状況などを記録した広島県重要文化財「田所文書」を伝えています。


9総社跡そうじゃあと
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「総社」は、それぞれの国の国府(役所)に建てられ、その国の中にあるすべての神社の神をあわせ祀った神社のことです。
都から来た国司(役人)は、その国にあるすべてのお宮に参らなければなりませんでしたが、ここに参拝することで、国中を回ったこととしていました。
当時の総社は、平安時代の造営と思われますが、後代の記録では大己貴命(大国主命)など53座の神々を祀っていたと伝えられ、田所文書にも多くの免田が記載されています。
府中北部の氏神社として春祭、秋祭、流鏑馬などでにぎわいましたが、安芸郡の地に造営されながら長らくその所在が分からなくなっていた「多家神」をめぐって松崎八幡宮の氏子との争いが絶えず、1874年(明治7年)松崎八幡宮とともに廃社とされ、多家神社に合祀されました。
現在跡地は公園として整備され、石碑が残っています。また、公園内にコミュニティセンター総社会館が1991年(平成3年)に建設されています。


10松崎八幡宮跡まつざきはちまんぐうあと
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京都の石清水八幡宮の別宮として、700年前には5つの寺をかかえるほど盛んな時代がありました。江戸時代から多家神社を巡って総社との争いが起こり、1874年(明治7年)に両社廃社のうえ現在の多家神社に合祀されました。今は石段が残り、旧境内に「神武天皇御腰岩」があります。


11石井城跡いしいじょうあと
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鎌倉~南北朝時代にかけて田所氏一族の石井氏が住んでいたという城跡。現在、住宅街の一画となっていますが、山頂部に大正天皇から没後約600年経って正五位を追贈された石井七郎末忠の碑が建立されています。


12道隆寺木造薬師如来坐像どうりゅうじもくぞうやくしにょらいざぞう
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広島県重要文化財。平安様式の木造で、ヒノキ材の寄木造。1201年(建仁元年)に造られたことが胎内に記されていました。本堂内に安置してあり、普段は公開されていません。


13龍仙寺りゅうせんじ
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もともと真言宗の寺として室町時代に建てられ、浄土真宗に改宗後、江戸時代の初めに現在地に移りました。江戸時代には寺子屋のほか、村人の出生、死亡の事務など役場のような仕事もしました。
かつては、頼山陽や菅茶山などの文人も訪れて詩を詠んだ「栢原山池」と呼ばれた庭園がありました。1873年(明治6年)には府中で初めての小学校「開明舎」が本堂を借りて開かれました。


14下久禰しもくね石灯籠いしどうろう
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1841年(天保12年)、府中北郷の人々が寄贈したもので、尾道の石工、宗八の作ったものと彫りこまれています。下久禰は江戸時代初期の地名で、石灯籠の設置は、航海の安全を祈願する金毘羅信仰によるものと思われます。
昔は、岩鼻(現広島市東区矢賀新町)から府中大橋を経て、船越に至る山陽道からも、この燈火が見えていたといわれています。
常夜灯(今の街灯)として、この辺りを通る人々に親しまれていたことと思われます。


15鹿籠神社こごもりじんじゃ
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江戸時代の鹿籠地区には、弁財天を祀る鵜崎神社、市杵嶋姫命を祀る鹿籠明神社、宇迦之御魂神を祀る稲荷神社の小社があったといわれています。三社は、1911年(明治44年)に多家神社に合祀されましたが、地域住民の熱意により1954年(昭和29年)にこの地へ三社を合祀して再建されました。
地名「鹿籠」の由来は、「厳島明神から、同社の上卿職である本村、田所氏への書類の送達は神鹿を使って行っていました。神鹿に書類を口に咬ませて、海を渡らせてこの地に住む主屋氏の家まで来て、疲れを癒して田所家に到着しました。田所家からの書状はこれまた神鹿によって運ばせるため、主屋氏の家に常に神鹿を置いていました。そのために、神鹿が籠る地という意味で鹿籠と称するようになった。」と伝えられています。


16龍仙寺りゅうせんじ勧孝悌碑かんこうていひ
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龍仙寺の14代の住職大乗が文政年間(1825年頃)に建立した石碑。親を大事にする「孝」、兄弟姉妹を大事にする「悌」が道徳の根本であるとして、善行者として褒美をもらった3人の名が刻んであります。


17多家神社たけじんじゃ宝蔵ほうぞう
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宮島の厳島神社、廿日市の速谷神社と並び、府中の多家神社は安芸国の三社として国の中で最も大切な宮とされてきました。しかし、江戸時代に多家神社の所在が、現在の総社跡か松崎八幡宮跡かで争いが生じたため、両社を廃社したうえ、1873年(明治6年)に現在の場所へ新たに多家神社が造られました。宝蔵(神輿蔵)は広島城内から移築されたもので、広島城内の建物の現存例として貴重であり、広島県重要文化財に指定されています。全国的にも珍しい四角の木材(あぜ子)を組み合わせて造られた校倉造で、江戸時代初め頃のものです。


18貴船神社きふねじんじゃ
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1910年(明治43年)に諸社と合併されるとき、元の社殿が朽ち果てていたため山田稲荷社の社殿と鳥居を移築し、現在の貴船神社としました。


19神武天皇聖蹟顕彰碑じんむてんのうせいせきけんしょうひ
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1940年(昭和15年)は神武天皇が即位した紀元前660年から2600年にあたる年といわれ、国を挙げて祝うこととなり、神武天皇聖蹟として全国18か所に顕彰碑が建てられました。この碑はその最後、1941年(昭和16年)11月に竣工式が行われました。この事業は戦前の国威発揚のために行われたもので、この碑が建てられた1か月後には、日本は太平洋戦争へと突入しました。


20草摺くさずりたき
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みくまり峡のキャンプ場から少し登ったところにある滝。その形状が鎧の草摺(腰から垂れた板。裾が草をこするところからこの名があるといわれている。)に似ていることからこの名前がつきました。


21今出川清水いまでがわしみず
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現在は飲用不可だが、1985年(昭和60年)に環境庁(当時)の全国名水100選に選ばれた湧水(わきみず)。古くから生活用水として使用され、祠の下は飲み水、次の囲いは食材の洗い水、最後は洗濯用と分かれています。


22尾首おくびいけ(首洗くびあらいけ)と尾首観音おくびかんのん
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今出川清水のように生活用水として使われていました。尾首の名前の由来は、中世山城の自然地形としての「城の尾首」から来たという説や、白井房胤が戦にやぶれて自刃した際にこの池で首を洗ったという伝説からという説があります。観音堂(吸江庵)は小さいお堂で、松崎八幡宮に関係があったようですが、江戸時代に長福寺へ譲られました。